我が家の浴槽が詰まったのは、ちょうど古いアルバムを整理していた週末のことでした。横浜市南区で水道修理から排水口を交換してから最初は単なる厄介な水回りトラブルとしか思っていませんでしたが、排水管の奥深くへと意識を巡らせるうち、ふと、この詰まりは、ただの髪の毛や石鹸カスの塊ではないのかもしれない、という奇妙な感覚に襲われたのです。それは、この家で家族が過ごしてきた長い年月の「記憶」そのものが、ヘドロのように堆積し、流れを堰き止めているのではないか。そんな、非科学的で詩的な妄想でした。この詰まりを「直す」という行為は、図らずも、私たちが忘れかけていた家族の歴史を掘り起こし、大切な「忘れ物」を見つけ出す、心のタイムトラベルとなったのです。 詰まりの原因となっているであろう髪の毛。その水道管一覧の排水口専門チームの長田区では、一体誰のものでしょうか。結婚当初の、まだ黒々としていた妻の長い髪。娘が生まれ、初めてお風呂に入れた日の、細くて柔らかい赤ちゃんの髪。息子がやんちゃ盛りで、泥だらけになって帰ってきては、ゴシゴシと頭を洗った時の短い髪。そして、いつしか白髪が混じるようになった、私自身の髪。一本一本の髪の毛は、それぞれの人生のステージのスナップショットです。それらが排水管の中で絡み合い、一つの塊となっている。それはまるで、家族の歴史が凝縮された、小さな標本のようにも思えました。私たちは、日々の忙しさの中で、互いの変化にどれだけ気づき、慈しむことができていただろうか。排水口の奥を覗き込みながら、私は過ぎ去った時間の重みに、少しだけ胸が締め付けられるのを感じました。 石鹸カスや皮脂の汚れもまた、記憶の断片です。娘が肌の弱かった幼い頃、刺激の少ないベビーソープを必死で探したこと。息子がニキビに悩み始め、殺菌作用のある薬用石鹸を使い始めたこと。私が仕事で疲れ果て、メントール配合の爽快なボディソープで気合を入れ直した夜。妻が、たまの贅沢だと、花の香りのする高級なバスオイルを使った日のこと。一つひとつの汚れは、その時々の家族の悩みや、喜び、ささやかな願いと結びついています。私たちは、体を洗い流すと同時に、その日の出来事や感情をも、排水管へと流し込んできたのかもしれません。そして、それらが澱のように溜まり、流れを悪くしている。それは、私たちが心の中に溜め込んで、消化しきれずにいる、未整理の感情のメタファーのようにも思えました。 この詰まりを解消しようと、ラバーカップを手に格闘していた時、私はある光景を思い出しました。まだ幼かった息子が、お風呂でアヒルのプラスチックのおもちゃを流してしまい、大泣きした日のことです。あの時、私は「そんなものを流すからだ!」と、息子の不注意をきつく叱ってしまいました。しかし、もしかしたら、あの時のアヒルのおもちゃが、今も排水管のどこかに引っかかり、今回の詰まりの遠因となっているのかもしれない。そう思った瞬間、私の心に罪悪感と共に、温かい何かが込み上げてきました。あの時、息子の気持ちにもっと寄り添ってあげればよかった。詰まりを直すことよりも、一緒にアヒルを探してあげる優しさが必要だったのではないか。それは、私が家庭という流れの中に置き忘れてきてしまった、「共感」という大切な忘れ物でした。 結局、私の手には負えず、プロの業者の方を呼ぶことになりました。高圧洗浄の轟音と共に、長年の汚れは洗い流され、浴槽の水は再びスムーズに流れ始めました。物理的な詰まりは解消されましたが、私の心に残ったものは、それだけではありませんでした。 浴室は、家族が裸の付き合いをする、最もプライベートで、無防備な場所です。そこでの日々の営みは、知らず知らずのうちに、排水管という見えない場所に「記憶の地層」として刻まれていきます。浴槽が詰まるということは、その地層が飽和状態に達し、「少し立ち止まって、これまでを振り返ってみてはどうか」と、家が私たちに語りかけているサインなのかもしれません。 詰まりが直ったその夜、私は久しぶりに、アルバムを家族みんなで囲んで眺めました。忘れていた思い出話に花が咲き、笑い声がリビングに響きました。それは、心の中に溜まっていた澱を、温かい対話で洗い流すような、優しい時間でした。浴槽の詰まりは、確かに面倒なトラブルです。しかし、その奥には、私たちが大切にすべきだった、そして、これから大切にすべきである家族の物語が、静かに眠っているのかもしれません。
詰まりの記憶浴室が語る、家族の歴史と忘れ物